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当事者だからこそ、伝えたい思いはある。

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俺のブルースを、聞いてください。

風の森

事の始まりは、私がこの世に生を受けた瞬間である。

母親曰く、幼児期は本当に手のかからない子供だったそうである。

 

私には、4歳下の弟がいる。最重度の知的障害を持っており、母親も父親もそちらに手を取られっぱなしであった。なので、自分が親から何かをしてもらったという記憶はほとんどない。

念のため補足しておくが、親と子供の関わりの質が発達障害の発症に影響を及ぼすことがないことは最近の研究で明らかになっており、私は両親から何もしてもらえなかったことに対して、どうこう言うつもりもない。

さて、私が小学生くらいの頃であっただろうか。両親は相変わらず、よく言えば弟の世話に全力を尽くしていた。言い換えれば、弟ばかり相手にしており、私の家庭内の立場は、一番下であった。なので、何でも我慢しなさい、努力しなさい、そうでないとこう(弟のように)なるぞ、と脅されたものである。この教育方針によって、私は今でも苦しんでいる。

私は幼稚園の頃からピアノを習っていた。譜面を読むのは下手だが、音感は非常に優れていると先生から言われていた。その言葉に踊らされた両親は、私にピアノの練習を「強制」した。友達と遊ぶことも許されず、学校から帰ると学習塾、それが終わればただひたすら、ピアノの練習という苦痛が待っていた。

ピアノなんて優雅な趣味を持って何が苦痛だ、と思われるかもしれない。確かに、電子ピアノだったとはいえ、買うには数十万の出費が必要である。なかなか出来る体験ではないかもしれない。しかし、もし、あなたが自分のやりたいことをさせてもらえず、ひたすら好まないことを強いられ続ければどう感じるであろうか?一音のミスタッチをするたびに、同じ部分を数百回、繰り返し、「完璧」になるまで練習させられたものである。こうして、私にとって音楽は一時期、「音が苦」になってしまった。

完璧を強制されることに関しては、勉強も同じであった。私がかろうじて得意といえたものはせいぜい英語程度のもの。国語は文脈の意味がとれない(発達障害の症状ですね)。社会科は暗記が出来ない。数学に至っては0点のオンパレードであった。点数の数字を見るたびに、親は学習塾へ「報告」し、完璧にこなせるまで、何科目分もたたき込まれたものであった。

子供時代に友達と遊ぶことが許されなかったというのは、今から考えるとその後の人生に致命傷を与えたと言って過言ではない。高校、大学と進学し、普通であれば人脈を広げる時期であるのに、それが出来ない。そして社会人となって感じたことは、自分が自分の周りに壁を作って、人を寄せ付けなくなっている、という事である。職場の先輩方は本当に優しかった。失敗をしたときはしっかりと叱ってくださり、物事がうまくいくきっかけを私が作ったときは、本当に褒めてくださった。でも、それが辛かったのだ。本当に自分の行いでうまくいったのだろうか、と疑うようになっていた。二次障害である鬱病の症状である。

鬱を発症してもしばらくは「努力」でなんとかなっていたが、そんなものが長続きする理屈はない。程なくダウンし、地元の心療内科クリニックへ。医師から鬱ですね、と5分で診断をくだされ、休職しましょう、と言われ、仕事を休職。その後、職場の上長より、君には君の持ち味を行かせる場所がきっとある。でも、それはここではないようだ、と、解雇通知を言い渡された。

鬱と発達障害による人間関係力の低さが相まって、リハビリ中も孤独であった。作業所でもデイケアでも、余り人と接することが出来なかった。就労移行支援も1年間利用し、その間、欠席は1日だけという、「優秀」な成績で就労継続支援A型事業所への就職が決まった。「努力」の甲斐である。

就労継続支援A型では、毎月の日数-8日の出勤が義務づけられていた。努力して、こなせるように頑張ったけれど、そんなものは努力で達成できるものではなく、程なく出勤できなくなった。

思うに、毎月の日数-8日の出席というのを一律に定めるのはどうかと思う。自己の能力に応じて出勤日数、労働時間を調整できるべきである。一般企業であれば、パートタイムという縛りにはなっても、それが可能である。所詮就労継続支援A型。障がい者を銭もうけのために安く買いたたいているだけのものである。

さてさて、そうこうしているうちにまた無職に舞い戻った私。もう自分はこのまま何も出来ないかと思い込む寸前であった。でも、神様は私を見捨ててはおられなかった。ある日、とあるSNSで、同じ発達障害の女性と知り合い、遠距離ではあったが交際を続けた。私は相も変わらず会話が下手であったが、その女性は呆れ、嘆きながらも私のことを放そうとはしなかった。そう、妻である。

先ほど、「努力する」事で苦しんだと記した。会話をすることも私にとっては苦痛であった。しかし、本当に妻は私をいい意味で努力させてくれ、励まし、ねぎらってくれた。そうしているうちに、会話は余り苦痛にはならなくなってきている。聴覚過敏の症状などで人の話を聞き分けるのは相変わらず苦手であるが、それでも話をすることは楽しいのだ、と思えるようになった。

 

ここまで、私の生い立ち、生活環境、思いなどを綴ってきたが、もしこんな長文をここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、お伝えしたいことがございます。何かを努力することは苦痛が伴うことです。でも、それはきっと、100%の力で取り組まれているからかもしれません。私自身、今でも支援スタッフの方に言われるのですが、70%の力で生きなさい、と。ちょっと肩の荷を下ろして、楽になってみてください。きっと新しい発見があります。

皆様の幸せを祈りながら、70%の力で思いを記してみました。ご覧いただき、ありがとうございました。





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